2011年4月21日木曜日

城郭高校探求譚――群馬県立富岡高等学校

富岡高校敷地内にある七日市藩の陣屋「御殿」。
すぐ裏は体育館である。
[富岡高校HPより]

 
「御殿」を持つ高校

群馬県と言えば、今をときめく日本ハムの斎藤佑樹投手を生んだ偉大な県である。高校野球の名門早稲田実業から推薦で早稲田大学に進んだ俊英でもあり、王子さまであることから、東京育ちの結構いいとこのボンボンという訝れ方もしそうだが、彼は中学まで、上州おろし吹きすさぶカカァ天下の群馬県人なのだ。彼の力量には、関東一円の高校が注目していたらしく、そこから早稲田実業には推薦で入学、高校時代は東京で兄とふたり暮らしをしていたことは、周知の通りである。
そんな偉大な県だからして、びっくりするような城郭高校がある(流れは突っ込まないでほしい)。


群馬県富岡市にある県立富岡高等学校である。同校は1897年に群馬県尋常中学校の甘楽分校として創設され、現在全日制と定時制を持つ男子校だ。


黒門プロジェクトの由来となった「黒門」。
かつては藩主前田家の宗家加賀藩の赤門に対しこう呼ばれたが、
今は東大の赤門へ通ずる門として願いが込められる。
 [富岡高校HPより]
 正門前に立つとまず眼に入るのが門柱である。でかい。そこまで大きくする必要があるのかと首を傾げるほどでかい。その大きな門柱の脇で一際存在感をアピールしているのが「七日市藩邸跡」の市の史跡案内板である。事情を知らない者であれば、看板の周辺でうろうろするに違いない。そしてその挙句、校門から出てきた富岡高校生(通称は富高生)に尋ねるだろう。

「七日市藩邸跡は、どこにアリマスカ」。
別に迷ったからと言って、謎の外国人を気取らなくてもいいのだが、そこから展開される世界はおそらくアナタを時空を超え、異邦人にしてしまうほどの衝撃は、きっとある。
そして富高生は、徐に門の中を指し、「ここです」と云うだろう。
そう富岡高校は七日市藩の藩邸だった場所である。すでに藩邸跡に高校校舎が建っている例を、我々はいくつか見てきた。門があったり、石垣があったり、お堀があったり…。生垣や桜、つつじなんかも植えられていて、なんとも風情があるという高校も少なくない。
しかし富岡高校はそんな城郭高校が霞むほどの存在感を持っている。
なんと高校敷地内に御殿があるのである。
同校の公式HPの校舎案内図には、敷地内にその存在が確認できる。御殿は七日市藩主であった前田家の主たちが代々住んでいた家、つまり陣屋である。

前田家と聞かれてピンと来られた方は日本史通と言えそうである。そうあの加賀藩百万石の藩祖前田家の直系の藩なのだ。七日市藩の藩祖は、前田利孝。戦国時代から安土桃山時代にかけて台頭し、豊臣秀吉政権の五大老として君臨した「かぶき者」前田利家の5男である。利家は秀吉とも年が近く、秀吉が没後も政権奪取を狙う家康を牽制し続けた重鎮だったが、秀吉が他界した後8ヵ月ほどで亡くなっている。
利孝が七日市藩を立藩したのは、1616年、関ヶ原の後、大阪夏の陣の武功を家康に認められたためだ。豊臣派から徳川派に寝返ったわけだ。だがこれもやむを得ない事情があった。

利家没後、利孝の兄、利長が家康と本多正信が仕組んだ「家康暗殺計画」にはまり、その反証として、利孝が江戸に人質として取られたためだ。
その後七日市藩は、利孝以降も前田家が12代連続で治め続け明治を迎えた。とくに拡大もせず、質実に営々と代を重ねた姿は、地方で光り続ける中小企業にも似ている。途中相次ぐ飢饉などで財政的には苦しかったこともあったが、そこは加賀の前田本藩が折りにふれ財政を支えたらしい。11代藩主の利豁の時代には藩校「成器館」を創設(1842年)している。
ちなみに利孝自身は幼少のストレスもあったのか、44歳という若さで亡くなっている。

そんな事情を抱えた前田藩の御殿。確かに有名大名の住まいに比べて豪華絢爛さはないかもしれないが、立派な御殿である。
正門から入ると左手に正面に御殿の偉容が眼に入ってくる。
しかもそのアプローチにはこれまた立派な大名庭園が用意されている。富岡高校の案内図にはただ「庭園」としか案内されていないから、この図を見る限りは、創立何十周年の際に、環境整備とかなんとかの目的で学校の角に申し訳程度につくった庭とも取れなくもないが、よくみると池のイラストの脇で錦鯉が跳ねているところが意味深い。実際よく手入れされた植栽に石橋を渡した趣のある池は、小藩前田家の慎ましやかさが見て取れる異空間だ。

大名庭園を抜けた先には、富岡高校の東門、黒門がある。門と言えば信州の上田高校の「古城の門」もインパクトがあったが、黒門はこれに比べると小ぶりである。しかしこの黒門こそ、富高生の青春の門ならぬ精神の門なのである。
というのも現在富岡高校ではこの黒門にちなんだオリジナルの進路指導システム「黒門プロジェクト」が2005年より進行中だからだ。

自分が将来なりたい自分を強く意識すること(WANT)から始まり、そのWANTを実現するためにやらなければならないこと(MUST)を自覚し、そのMUSTをクリアしてできる(CAN)変えることで、なりたい自分が実現できる――その3つのステップを確実に歩む。そしてこの3つのステップを確実歩むために学校は全力でサポートする。基本的な生活習慣を確立させながら、授業への真剣な取り組みを軸とした具体的な学習支援策「サクセスシステム」と目標への意識を常に持ち続けるメンタル的なサポート「ドリームプラン」を目標達成まで提供するのである。何かと悩み、迷う若人を物心両面で全力でサポートし、栄冠をつかんでもらおうというのである。いい高校である。
この黒門プロジェクトが目指すのはずばり東京大学である。これは七日市藩の黒門に対し宗主藩である加賀藩の江戸屋敷に赤門があったことに因む。つまり黒門を出て、東大の赤門をくぐることを暗に示している。なんとなくこじつけっぽさもあるが、その意気たるはよし。

肝心の成果のほうだが、05度まで200人台後半だった4年生大学の合格者数が、黒門プロジェクト1年目の06年度には、一気に300人台を突破、さらに08年には400人の大台にも乗った。難関と言われる国立大学合格者も年によってバラつきはあるものの、40人台から50人台後半、60人台を維持するようになった。09年にはめでたく東大合格者も生み出している。

全国の俊英を集める超エリート高校からすれば、ささやかな成果かもしれない。だがたとえば、夏は扇風機を使って暑さをしのぎ、冬は石油ストーブを使って暖をとりながらの、決して十全な環境にないなかでの成果は立派である。むしろこういう環境だからこそ伸びしろの大きい逸材が育っていることは確かだろう。


もともと富高生は鍛えられている。入学直後には夜間を通じ妙義神社など一帯を踏破する「夜間耐寒歩行」が敢行され、まずは富高生としての根性が試されていた。ただ残念なことに03年で昼間に行う「妙義ウォーク」に代わっている。
易きに流れてはいけないぞ、富高生。


もっとも城郭高校らしく文武両道は貫かれており、高校野球では群馬を代表する実力校で、六大学野球、さらにプロ野球界に多くのOBがいる。弓道部も県の実力校として知られる。さらにハンドボールは全国大会常連である。


富岡高校を城郭高校たらしめているのは、その御殿の存在だが、際立っているのは素晴らしいOBがいることだ。なんと国民的人気番組「水戸黄門」の初代黄門様、東野英治郎さんがいるのだ。御殿に日本庭園に黄門様――出来すぎである。もちろん著名なOBはまだいる。たとえばコメディアンの団しん也、NHK初代会長の阿部慎之助、画家の福沢一郎、監査法人トーマツの創始者等松農夫蔵(とうまつのぶぞう)らがいる。「えっトーマツってなんか外国人と思っていた」と驚かれた方もいるだろう。ベタベタな?日本人だったんです。

深いぞ、富高。
ちなみに冒頭紹介した斎藤佑樹投手は富岡出身ではない。つかみとして出しただけです。ハイ。







 




2011年3月21日月曜日

城郭高校探求譚――滋賀県立彦根東高等学校

 ひこにゃんにあやかる?!ゆるキャラだってある滋賀の名門


国宝・彦根城
井伊家400年の栄華のカタチ
  ちょっとやんちゃな歌舞伎役者がいたそうな。彼はことあるごとに「俺は将来、人間国宝になる。君は?」と訊いていたという(巷間の話)。そのやんちゃが高じて、活動禁止となったそう。でも巷の人は、どこか彼にまたやんちゃをやらないかと半分期待をしている……人の心はいとをかし。それはともかく「国宝になる」と言われて、ふつうは「俺もだ」と返せる人はそういない。

それほど「国宝」という言葉には威厳がある。ふつうの人を平伏させてしまうのだ。
その国宝の指定を受けているのが、あの彦根城である。お城というだけで、下下の者は、その存在を崇め、敬意を表し、平伏させるに十分な存在であるのに、国宝の指定がつくのだ。しかもこの彦根城は、あの偉大なゆるキャラ「ひこにゃん」を生んだ。
 顔の面積が全体の3分の1を占める、ゆっる~い猫キャラなのに兜まで被っている。取ってつけたような構造をしているが、実はひこにゃんは実在の猫がモデルとなっている。

ペット人口が最も多い猫好きを狙った、緻密なマーケティングから生まれたわけではない。
江戸時代、武蔵国荏原郡世田谷村(現・東京都世田谷区豪徳寺)の豪徳寺の大木で雨宿りをしていた彦根藩主二代目井伊直孝の前に現れた白猫が、直孝を手招きした。「こやつ何者」と近づいたとたん、雨宿りをしていた大木に雷が落ち、直孝は危うく難を逃れた。そのこの白猫こそがひこにゃんのモデルとされる。この白猫は豪徳寺の飼猫で、直孝はその後この豪徳寺を井伊家の菩提寺とした。当時貧乏寺だった同寺は、その後大いに栄耀したという。いまでも豪徳寺は東京近郊の住みたい街ランキングの上位に入る。白猫さまさまである。さらにこうした逸話から、この白猫は「招き猫」のモデルの1つともされている。
ひこにゃんは由緒ある、神々しいまでの逸話を持つ存在なのだ。どこぞの語呂合わせでてきたようなゆるキャラとは格が違うのだ。

そのひこにゃんの住まいは国宝・彦根城。言われからすると豪徳寺が正しい気もするが、意外と出世欲があったのかもしれない。

その彦根城は1622年、多くの大老を排出した井伊家の居城として、徳川四天王の一人、井伊直政の遺志を受けた直継と直孝によって、それまでの佐和山城に代わって築かれた。着手が1604年。18年の歳月を要している。
ちなみに佐和山城は、石田三成の居城だったため、彦根城が竣工した後、徹底的に破壊された。現在はわずかにその碑が高台に残るのみ。家康が「徹底的に解体せよ」と命じたらしい。怨み骨髄に入るというか、何とも勿体無い気がするのはやっぱり筆者が21世紀に生きるからか。

彦根城は、関西の海、琵琶湖湖畔に立つ、どこかヨーロピアンな風情を醸し出す城である。ヨーロッパの城はたいがい美しい湖畔に建つ…というのはもちろん思い込みである。ただどこか異国情緒を漂わせているのは確かである。なぜか。それは朝鮮半島風が取り入られているからである。朝鮮半島風とはすなわち、豊臣秀吉が晩年、朝鮮出兵を行った時にその足がかりとして築いた一連の城、「倭城」の流れを組んでいるからだ。意味的には朝鮮半島風ではなく、日本風ってことなるわけなんですがね…。

倭城の最大の特徴は「登り石垣」という万里の長城のような石垣が、敵の侵入を防ぐために山腹をぐるりと囲んでいることである。佐和山城が徹底的に壊されたのは、とにかく家康が、秀吉の名残を一掃したかったからだが、秀吉が確立した倭城スタイルを彦根城に持ち込んでいるのは、家康の合理主義というより、どこか「ずっこい」気がする。古狸と言われる所以だろう。

藩主の井伊家は、徳川家、関ヶ原、それに続く大阪冬の陣、夏の陣の覚えめでたかったため、江戸時代を通じて1度も転封(転勤)なく通している。老中、大老という要職にはほかに堀田家や本多家など名門普代大名がいたが、転封なしは井伊家だけである。しかも、大老という徳川株式会社のCOO(執行役員)を5代6度勤めている。事実上最高権力者となり桜田門外の変で水戸藩士に切られた15代藩主井伊直弼はその代表だ。


彦根城の敷地に泰然と構える
彦根東高校
[彦根東高校HPより]
 

で、彦根東高等学校である。公式ホームページを開くと、トップの写真には彦根城の石垣をなめた奥に彦根東高校の校舎が見える。なかなかグッとくるアングルである。でも「惜しい、城郭の外なのか~」。と思ったら、ノンノンである。校舎はちゃんと彦根城の内濠と中濠に挟まれた城の一角を占めている。皇居で言えば、外苑あたりだ。城郭高校らしい現存する上屋こそないが、国宝の城(天守)の敷地内というインパクトは大きく、贅沢である。それで十分だと思ったら、かつて校舎は二の丸にあったという。

濠一帯には、桜が植えられ、春ともなれば爛漫の花となる。藤沢周平か池波正太郎が描く情景が浮かぶ。あるいはめでたく東高生(略称はこうらしい)となった彼ら彼女は、これまた風情たっぷりの京橋をわたって、その道すがら「お初にお目にかかりまする」といった会話を交わすに違いない。もしくは「そちはにゃんと申すか」とか云うのだろうか、ひこにゃんだけに…ンなわけないか…。

彦根東高校の校舎は彦根城の多くの城郭高校と同様、そのオリジンは1799年創設の彦根藩藩校「稽古館」である。歴史は200年を超える。十分長い歴史を持つが、岡山藩が米沢藩など開明派の藩主が1600年代に開校していることを考えるとやや物足りない。見学精神は「赤鬼魂」。って何だというと、これは井伊家の「赤備え」に由来するものらしい。赤備えとは、関ヶ原の戦いなどの武勇で知られる井伊直政が、戦闘の際、朱塗りの甲冑、具足、兜など軍装束で敵をバッタバッタと撃破、その姿が赤鬼として恐れられたことからこう呼ばれるようになったらしい。

同校のHPは赤鬼魂を「何事も一番!」「先頭に立って活躍する」「時代に先立って新しい分野を切り開く」「何事にも屈しないチャレンジ精神」と紹介している。
かなりアグレッシブなスピリッツである。そんな赤鬼魂を宿して旅立っていったOBには舌鋒鋭く斬り込むジャーナリストの田原総一朗を代表として、パナソニック中興の祖、中村邦夫元社長、トヨタの中興の祖、石田退三元社長など、なるほどな顔ぶれが並ぶ。時にアグレッシブ過ぎ、過激派であさま山荘事件の首謀者だった坂東国男や日航機ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命した若林盛亮なども出した。

そんなアグレッシブなスピリッツを持つ高校なのに、彦根東高校は独自のゆるキャラを持ってる。「ぎんにゃん」。ぎんにゃんはひこにゃんと同じ白猫。彦根東高校の象徴であるイチョウを頭に挿し、赤鬼魂を表した真っ赤なマフラーを巻き、校章で留めている。ひこにゃんの高校生版とも取れなくもない。

ぎんにゃんは2009年に行われた「彦根七夕まつり」で校外デビュー。同年の「ゆるキャラまつりin彦根~きぐるみさみっと2009~」では高校としては唯一参加し、話題を呼んだ。話題と言えば、ぎんにゃんは、かくれんぼのギネス記録も持っている。2010年、市内の荒神山公園で188人が1時間以上隠れ続け、めでたくギネス記録認定者の一人(一匹)になった。実技では191人参加して188人が残ったというから、ちょっとゆるゆるなかくれんぼの気もするが…ギネスなんだからしっかり基準をクリアしているのだろう。

地方の名門高校というのは、たいがい不思議な伝統文化を持っているものである。この彦根東も御多分に漏れず、いろいろある。その代表が「東高体操」だ。50年前、同校の体育教師であった宮下雅男さんが開発したオリジナル体操だが、新入生はこの体操をマスターしてはじめて東高生として認められるという。高校生らしい体操を目指してつくったということで、動きは高度でわかりにくい。しかも男女振り付けが別だ。どうせ受験科目じゃないからテキトーにしようぜ、ってわけにはいかない。東高体操ができないと単位がもらえないからだ。そう何事も赤鬼魂なんである。

ちなみにほかのOBOGには民主党内閣総理補佐官の細野豪志、同じく元文部科学省の川端達夫、参議院議員の林久美子、同じく田島一成など国会議員、とくに民主党員が固まっている。ほかにL’Arc~en~CielKenなどもOBである。

なお田原総一朗の影響ではないだろうが、新聞部が強く、県の高等学校新聞コンテスト最優秀賞を31年連続で受賞(2010年度時点)のほか、全国高校新聞年間紙面審査賞や全国高校新聞コンクールなどでも毎年トップクラスの賞を受賞している。

ゆるそうに見えても赤鬼なんである。




2011年3月3日木曜日

城郭高校探求譚_長野県立上田高等学校

悠久を超えて語りかける「古城の門」

長野県は知る人ぞ知る教育県だ。とりわけ漢字教育には熱心で、小中校では白文帳という漢字練習帳に毎日好きな漢字を1つ選んでは、ノート1ページを埋め尽くす。このため小学生でもかなり難読の漢字が書ける。このあたりはTVの人気番組「秘密のケンミンショー」でも紹介していたのでご記憶の方もいるだろう。

長野県立上田高校はそんな長野県の東信地区を代表する進学校である。創立は1874年、第16区予科中学校が前身である。
上田市は人口約16万人、信州の鎌倉と言われる東信地区最大の城下町である。県立上田高校は、その中心部、上田市役所のとなりにでーんと構えている。上田市には信州大学繊維学部の上田キャンパスもあるが、JR上田駅前からは上田高校のほうが近い。所在地住所も大手1丁目。まさに城郭高校にふさわしい地名と位置取りである。

ちなみに東信とは信州の東を意味する。長野はほかに大きく北信、南信、中信の4つの地域に分かれており、それぞれ代表的名門校がある。北信では県庁所在地長野市にある県立長野高校、南信ではその中心都市である飯田市にある県立飯田高校、中信では県下2番目の人口規模を持つ松本市にある松本深志(ふかし)高校がある。

この3校のうち国宝松本城を擁する松本深志と飯田城を擁する飯田高校は城郭高校の要件を揃えているが、長野高校は長野市が善光寺を中心に発展した門前町であるため、仲間に入れられない。ごめんね、長野高校。

残り2校はまた追々紹介するとしても、なぜ国宝の松本城を擁し、より難関大学に合格者を出している松本深志高校を差し置いて上田高校を紹介するかと言えば、偏にその城郭高校ぶりである。
上田高校は上田城三の丸、上田藩主の藩主松平家の館跡に建っているのである。城主や藩主の館跡に残る高校は少なくないが、上田高校の場合は何と言ってもその残り具合が素晴らしい。

上田高校の古城の門。
ここから青春のドラマが始まり、
やがてエンドロールを迎える。
[上田高校HPより]

上田高校の校門は藩主屋敷の表御門がそのまま使われている。レプリカではない。市の文化財にもちゃんと指定されている門である。この門は「古城の門」と呼ばれ、生徒は毎朝この門をくぐって教室に向かう。昨今の物騒な世の中を反映してか、学校の校門は年々厳重さを増しているが、生徒を守るというより、どこか人を締め出すような非人間的な印象を受ける。だがこの古城の門は、その威風堂々たる姿が「遅刻など一切ゆるすまじ」という無言の威圧感を与えるものの、都会で見かけるID付きの重い鉄門にはない、そこはかとない慈愛が漂う。

それもそのはずだ。この門は毎年春の入学式から卒業至る、学校行事の節目節目に記念撮影のポイントとして使われているのだ。高校の青春ドラマがこの門から始まり、ここでエンドロールを迎える。上田高校生にとっていかにこの古城の門が重要であるかは、同校のホームページに延々の掲載された写真が物語っている。世に名門という言葉があるが、こと上田高校の古城の門ほどこれにふさわしい門はないだろう。

古城の門とお堀。
5月には丁寧に管理されたつつじが
花を咲かせる。
[上田高校HPより]
上田高校の周囲にはお堀も現存しており、その内側にはこれまた文化財指定の塀もそのまま残ってる。周囲には桜やつつじが綺麗に管理され、旬の頃はそのまま江戸時代にスリップしたような感覚にとらわれる。
こんな羨ましい学び舎を巣立ったOBには東京急行グループの創設者五島慶太や、カムイ伝などで独自の世界を拓いた漫画家の白土三平、気象予報士の関嶋梢、「マドンナたちのララバイ」(岩崎宏美)「時間よ止まれ」(矢沢永吉)など、流行歌を数多く送り出した作詞家の山川啓介、若手ではフジテレビアナウンサーの桜井堅一朗などがいる。

上田高校はベースとなる城がいい。あの上田城である。あの、と称するのは、この城が知る人ぞ知る難攻不落の城だったからだ。城をつくったのは戦国時代、甲斐国武田信玄に仕えた真田十勇士で知られる真田昌幸。上田城は1583年に彼が築城開始し、翌年完成させたものだ。

上田城。長野県きっての桜の名所としても知られる。
春には「上田城千本桜まつり」が催される。
[上田市HPより]
その城の名城ぶりを真田の名前とともに轟かせたのは築城から16年後に起こった天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いの時である。西軍の石田三成側についた昌幸は息子の信繁(幸村)とともに、東軍の有力武将徳川秀忠の軍と上田で相まみえるが、秀忠の3万余の軍をその10分の1(諸説あり)の軍勢で足止めした。
真田が地勢に知悉していたことはあるが、やはり上田城のつくりの巧みさがこの結果を導いたことは言える。最も昌幸は徳川が攻めることを想定していたと言われる。

南側を千曲川が流れ、北側と西側に矢出沢川を引きこみ、唯一の攻めどころである東側も湿地帯があるなど、地形をうまく利用している。天守閣は残っていないが、その存在を疑問視する声もある。同時期築城の小諸城などには天守閣が見られることから、あったという説が有力だが、謎の多い城でもある。

この城と真田の知略で結局秀忠は真田父子を討てず、関ヶ原の主戦にも間に合わず、何とも中途半端なまま徳川の時代を迎えることとなった。
天下の二代将軍を手こずらせたこともあって昌幸、信繁父子は本来であれば、自害してもおかしくなかったが、紀伊の山奥への蟄居で済んでいる。代わって上田城に入ったのは昌幸の長男である信之である。なんと信之は関ヶ原の戦いでは徳川側についていたのである。

このあたりも知略家真田一族の名を後世に知らしめる史実の1つである。つまり家を重んじた真田は東西両方に子どもがついていれば、真田の家系は残ると考えたのだ。その後の信繁は大阪冬の陣、夏の陣で再び徳川と戦うが、ついに夏の陣で討たれる。

その後藩主は信之の時代が続くが、1622年に信濃松代藩に「転勤」、代わって仙石氏が小諸藩より転勤、さらに1706年に松平氏に変わる。
こうしたいわくもあってか、上田城はちゃんとした天守閣が残っていない城にもかかわらず、城マニアの間では常に上位にランクされる。

現在上田高校には定時制を含め約一一〇〇人が学ぶ。上田高校ではいわゆる部活動とは呼ばず、これを班活動と呼んでいるが、その種類参加者はかなりの数に上る。全国レベルも少なくない。一方で学業も東大5名や国公立医学部5名をはじめ全国難関大に合格する生徒も多い(2010年)。いわゆる文武両道の典型校と言える。


変幻自在、時代の先を読み、忠義を果たす一方で実利をとったかつての城主の生き様を、古城の門は今日も上田高校生に語りかける。

2011年1月20日木曜日

城が学び舎だった ―― 城郭高校探求譚 ――――― 岡山朝日高等学校-2

烏城城郭に「築城」した校舎



光政は国替によっていみじくも岡山藩主となっていた。
江戸幕府は将軍をトップとするいわば会社組織で、各藩主は支店みたいなもの。各支店の業績や経営陣に対する態度などで転勤となることはよくあった。
光政が岡山藩主になったのは、叔父である池田忠雄が死去し、その嫡子である光仲が幼少で山陽道の要衝である岡山を預かるには力不足であると見做されたためだ。

つまり旗艦支店である岡山支店を任せるには「光仲くんは、まだ力不足じゃないか」と人事部長判断があったのだ。
それまで光政は鳥取藩主だった。この人事では光政が岡山に入る代わりに光仲は鳥取に向かう。つまり入れ替わりである。

光政自身も本来なら姫路藩主として、父の後任に座るはずだったが、幼少を理由に鳥取藩に国替えとなった経験を持っていた。
これが閑谷学校の施策となって結実したのだろう。

一方城主を迎えた岡山城。石山城とも言われ、戦国時代に備前の金光宗高が居城していた石山のごっつい城だった。ここに豊臣秀吉の五大老の1人となった宇喜多秀家の父、直家が金光氏を討って入城、再築城した。その後、秀家が全面リニューアル、1597年に完成させたものである。リニューアル後は外壁に黒塗りの「下見板」と呼ばれる板を貼っており、黒っぽいしまった城へ変身。これが別名の「烏城」のゆえんとなっている。現存する天守閣は、第二次世界大戦で消失したものを再建したものだが、江戸時代の雄姿をそのまま再現している。

岡山城の天守閣は世界遺産ともなった姫路城と同じ様式。すなわち大入母屋造りに意匠を凝らした高楼を重ねた「望楼型」。戦火を逃れていれば、姫路城に次いで世界遺産になっていたかもしれない。
しかもかたや白鷺、かたや烏で、そのコントラストが互いを引き立て、今以上に観光客を引き寄せただろう。

実は岡山にはこの烏城の名を抱いた高校がある。県立烏城高校。夜間中学として誕生した同校は、夜間部と昼間部を持つ高校として岡山県の勤労学生の学びの場として重要な役割を果たしているが、残念ながら歴史が浅く(1941年開設)と、1世紀に足りない。城郭高校に入れることはできなかった。

城郭高校の条件は前回いろいろ挙げた。それらの項目が2つ以上当てはまっていれば、それをクリアするが、歴史が1世紀、もしくは90年以上はマストの条件である。岡山朝日高校はその条件を満たしているが、やはり城郭高校という以上、しかも1回目だから、校舎の周辺に城郭の一部が残っていなければという気にもなる。

現在の岡山朝日高校は岡山城から南西およそ1km余りの旧制六高跡に建つ。岡山市内の高校で最も近い位置にあるものの、敷地内の校舎には、城郭の片鱗は見て取れない。

しかし同校の公式サイトの沿革を覗くと、誰もが得心するに違いない。

岡山朝日高校の公式の創立年は明治7年(1874年)である。岡山藩藩校の歴史を汲む教員養成機関として「温知学校」が創設された年だ。この温知学校が建てられた場所は、岡山城の西の丸跡なのである。さらに1895年、制度改革により岡山県岡山尋常中学校となった同校は、新校舎を岡山城内に建築、1896年11月に竣工し21日に落成式典を行っている。

1929年の旧制岡山一中空撮写真。
天守閣を囲むように
校舎や施設が建ち並んでいる。
[県立岡山朝日高校HPより]
同校の公式サイトには、この当時の新築直後の校舎の写真が載っているが、張り出した石垣の上に建つ校舎の様は、まさに城郭高校にふさわしい。同校ではこの落成記念日を正式な創立記念日としている。城郭高校としては実に正しい歴史的判断だと思う。
サイトではさらに時代が下り、1921年旧制岡山一中となった同校の空撮が1929年と1935年の二枚、掲載されている。そこにはこれを城郭高校と呼ばず何と言おうというばかりの姿が確認できる。
その校舎の様子はまるで岡山城の築城の際からある本丸の建築物のようである。

まさに城が学び舎だったのだ。残念ながらこの校舎も大戦の戦火で烏城の天守閣とともに焼け落ちてしまった。
岡山朝日高校は4年前に校舎を新築している。コンピュータ教室や生徒が自由に使えるコモンホールなど県立高校にしてはそれなりにモダンな要素を取り入れているが、見る限りは無難だ。だがもし今なお校舎が城郭内に残っていれば、校舎のつくりもだいぶ違っていたかもしれない。

2011年1月10日月曜日

城が学び舎だった ―― 城郭高校探求譚 ――――― 岡山朝日高等学校-1

藩校のフロントランナー
 
 城郭高校の第一回をどこにするか、ちょっと悩んだ。順当なのは北海道から沖縄へ南下するか、あるいは沖縄から北上する方法だ。何となく水戸黄門漫遊記っぽくていいかなとも思ったが、国内の城郭高校はかなりある。テレビドラマのようにテンポよく進むわけでもないので、めぼしい高校を挙げていくだけでも時間がかかる。なのでやめることにした


  あとはいかにも城郭高校にふさわしい出で立ち、佇まい、歴史性みたなところで納得してもらえる、もしくはしてもらえそうな高校をランダムに挙げていくしかない。それはそれで大変だろうな、と思いつつ登場願ったのが岡山県立岡山朝日高等学校である  。

2007年に校舎を
新築した岡山朝日高校。
城郭の面影はない。
[県立岡山朝日高校HPより]
  岡山朝日高校は、生徒数1000名(2010全日制の知る人ぞ知る岡山県きっての名門進学校である。地方の県立高校の場合、県庁所在地にある歴史の長い進学高校は名門校が多い。入試の難易度はトップクラス、県はもとより国を代表する政財界、文化人を多数輩出している。岡山朝日高校もその例外ではない  。

たとえば学者では、その偉業を讃え記念賞を開設された現代物理学の父と言われる仁科芳雄(以下敬称略)や東京帝国大学法学部の法学部長を務め、最高裁判所長官、吉田茂内閣では文部大臣を務めた法学者の田中耕太郎、マスコミなどでよく発言をする精神病理学の小田晋、ロボットスーツの発案者で自ら会社を起こしたサイバーダイン社長で筑波大大学院教授の山海嘉之など独創、ユニークな人財を輩出している

ほかにも文芸分野ではジャーナリストでもあった薄田泣菫、「博士の愛した数式」などの作品で知られる作家の小川洋子、「火垂るの墓」や「じゃりン子チエ」などアニメで知られる映画監督の高畑勲などがいる

実業界ではVANジャケットの創業者で日本にIVYファッションを根付かせたデザイナーの石津謙介、日本郵船の社長の宮原耕治、東京電力会長の田村滋美など大物が続々。また語学系の硬派出版社でありながら女優・宮沢りえのヌード写真集を発行し、話題を呼んだ朝日出版社の創業者の原雅久は、愛校心からか高校名を社名にしている

政治家では、前参議院議長の江田五月、衆議院議員の片山虎之助など、現役の大物もいる。極めつけは首相となった岸信介だろう
まさに綺羅星のごとく人財を生み出している高校である

岡山市には同校を含めて「岡山五校」と言われる岡山市内を中心とした人気県立校があるが、その中でも人気は抜群である。だがこういった事情を鑑みて1回目に登場願ったのではない。この高校が日本の公立高校では最も歴史があるとされる高校であるからである

旭川を臨む岡山城(烏城)。
信長、秀吉と天下統一が果たされた後に
宇喜多秀家によって全面リニューアルを
受けたこともあり、
天守閣の位置はそれほど高くはない。
[岡山市HPより]
もちろん城郭高校にふさわしい条件は満たしている。なにせその原点は岡山藩主・池田光政の藩校「花畠教場」に遡るのだ。創設は1641年。実に360年前である。藩校は江戸時代、諸藩が藩士の子弟の教育のために設けた直轄教育機関である。幕府の施策もあり、江戸時代を通して全国に広がり日本の学力の底上げに貢献したが、花畠教場は幕府が各地に整備を促す前に開かれた藩校のフロントランナーなのである

池田光政は当時、水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並ぶ名君(江戸初期の三名君)とされ、学問の振興と藩内経済の安定のため産業振興に尽力したとされる


学問においては花畠教場のほか、庶民のための手習所と呼ばれる学校を数百か所設けている。後にこの財源をめぐって息子の綱政と対立しているが、光政はこれに対して、手習所を統合し、いわば庶民の小学校ともいうべき「閑谷学校(しずたにがっこう)」を新たに設けている。

閑谷学校は建築に32年も要した本格的な学校で、校舎となる講堂のほか、校庭や校門、池も整備されるなど、現在ある公立学校に比べても実に贅沢なつくりとなっている。写真で見るだけでも光政の教育に賭けた想いの強さがひしひしと伝わってくる

光政が優れているのはこうした教育現場の整備もさることながら、その場を支え発展させていくための制度を創り上げたことだ。光政は自分、もしくは子孫が国替となり他藩に移ることになっても、閑谷学校が存続できるよう学校予算を藩の予算から独立させていたのだ

なんでもかんでも事業仕分けしてしまうどこぞの政治家にはちょっと耳のイタイ話かもしれない。もちろん教育予算を聖域としてだらだらと金を垂れ流すようでは困るが……

光政がこうした施策を取ったのは、どうも自身の来し方によるところが大きいと思われる
(つづく)

2010年12月15日水曜日

城が学び舎だった――城郭高校探求譚

 日本に城好きは多い。「一国一城の主」の喩えがあるように、城を持つことはいわゆる男子の本懐でもあった。だが今の時代、一般人が城を持つことは叶わない。なのでたいがいは一軒家という住居を建てたり、購入して満足する。広い土地のない大都会ともなれば、戸建てではなくマンションという集合住宅がふつうになってくる。そっちのほうが便利だし、これからはそのほうがいいという住宅評論家やエコノミストもいる。だが住宅所得第一次世代といわれる30代前半を見る限り、いまだ戸建てを希望する人が6割以上占めている。これは日本人の多くがいまだ一国一城の主という呪縛から逃れられない証でもあると思われる。
たとえばプロレスラーの藤波辰爾氏などはその1人だ。藤波氏はその夢を実現しようと見積もりをとったのである。戸建て住宅ではない。自分だけの完全な城をつくろうとしたのだ。藤波氏はプロレスの巡業行先に城郭があると必ず訪れ、写真を撮るほどの城マニアだ。気持ちはわからないでもない。しかし見積額100億円という数字にあえなくフォール負けしている。聞けば、その金額よりもその大空間をいったい誰が掃除するのかが焦点だったらしい。

 また三重県伊勢市に住む井村裕保氏は、世界遺産の姫路城に魅せられ、25年の歳月をかけて23分の1のスケールモデルを完成させている。文字通り一国一城の主となったわけで、しかも世界遺産という城マニア垂涎の一城を手にしたわけだが、残念ながらそこに住まうことはできない。

 それにしてなぜ日本人はこれほど城に魅了されるのであろうか。現代人にとっては城が住まうことのできない非日常空間であるということもその理由かもしれない。少なくとも100数十年前までは城は身近だった。なんせピーク時にはこの狭い国土に4万城もあったという。4万という数字は現在日本全国に展開されているコンビニエンストアの数に等しい。つまりその昔、城は街のコンビニだったのだ。もちろん弁当やスイーツが売られているわけではない。中に立ち入ると「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれる店員もいない。ヘタに入り込めば、捕らえられて隠し牢屋に閉じ込められたり、打首になったりする、恐れおののく場所だ。でも皆城が好きなのだ。

それは城が日本人にとって身近な存在であり、日々の暮らしに深く根差し、影響を与え、また人を育ててきたものだからだ。その多くは明治維新時に壊されてしまったが、新政府下では、その城郭の一部が市役所や学校、記念公園などになったりと、地理的政治的にも新しい行政の中心的位置を占めていた。

その一つの証左が「城郭高校」ある。城郭高校とは、その歴史がその地域の城と文化的に深く関わっている主に100年程度の歴史を有する高等学校を指す。

長野県上田高校の古城の門。
上田城址に建つこの高校は、
城主の屋敷門が現役の校門として
使われている。
[上田高校
HPより]
たとえば、校舎の一部が城の敷地の一部であったり(石川県立小松高校、兵庫県洲本高校)、実際に門や天守閣が校舎の一部として使われている(長野県上田高校、岡山県高梁高校)、あるいは校歌や応援歌に城が謳われている(青森県弘前高校、三重県上野高校、栃木県大田原高校)、高校の出自がもともと藩校であったりする(岡山県岡山朝日高校)、名前の由来が城から来ている(長野県松本深志高校)など、歴史的文化的だけでなく物理的にも深い関わりを持つところが多い。
城郭高校は耳慣れない言葉だが、我々「城郭高校探検隊」は、これを以下のように定義する。

<定義>
日本全国の歴史ある高等学校のうち、周辺に城郭、もしくは城跡があり、文化的つながりが強い高校。

文化的つながりとは――
●校舎が城郭、城址を利用して建ってる。
●校歌や応援歌などに城や、城郭、城壁、城址の名称などが使われている。
●城名(別称、あるいは城下の藩校や城主別館)が高校名についている。
●部活動や高校行事の一部が城跡、城址などを利用して行われている。
●代々の城主や藩主がその高校、もしく前身などに深く関わっている。(OB会、基金、寄付講座など)
●城、城郭、城跡、城址に関わるいわれがその高校に残っている。
●現役生が近隣のほかの高校に比べても非常にその城に愛着を持っている。
●城研究、城跡研究の組織が高校に存在する。
●現役生、OBOGにとって城址、城跡がデートスポットになっている。
●城址、城跡が現役生、OBOGの告白場所になっている。
●1世紀以上の歴史がある(もしくはそれに近い90年~)。

 ここでは、この定義に当てはまりそうな全国の城郭高校の実態とその文化的・歴史的バックグラウンドについてレポートしていくとともに、城郭高校を全国の方々に認知していただき、その情報を得、かつ地域文化・経済の活性化のきっかけとして活用していただくことを強く願うものである。
 乞うご期待されたし。

 平成22年12月。城郭高校探検隊一同