悠久を超えて語りかける「古城の門」
長野県は知る人ぞ知る教育県だ。とりわけ漢字教育には熱心で、小中校では白文帳という漢字練習帳に毎日好きな漢字を1つ選んでは、ノート1ページを埋め尽くす。このため小学生でもかなり難読の漢字が書ける。このあたりはTVの人気番組「秘密のケンミンショー」でも紹介していたのでご記憶の方もいるだろう。
長野県立上田高校はそんな長野県の東信地区を代表する進学校である。創立は1874年、第16区予科中学校が前身である。
上田市は人口約16万人、信州の鎌倉と言われる東信地区最大の城下町である。県立上田高校は、その中心部、上田市役所のとなりにでーんと構えている。上田市には信州大学繊維学部の上田キャンパスもあるが、JR上田駅前からは上田高校のほうが近い。所在地住所も大手1丁目。まさに城郭高校にふさわしい地名と位置取りである。
ちなみに東信とは信州の東を意味する。長野はほかに大きく北信、南信、中信の4つの地域に分かれており、それぞれ代表的名門校がある。北信では県庁所在地長野市にある県立長野高校、南信ではその中心都市である飯田市にある県立飯田高校、中信では県下2番目の人口規模を持つ松本市にある松本深志(ふかし)高校がある。
この3校のうち国宝松本城を擁する松本深志と飯田城を擁する飯田高校は城郭高校の要件を揃えているが、長野高校は長野市が善光寺を中心に発展した門前町であるため、仲間に入れられない。ごめんね、長野高校。
残り2校はまた追々紹介するとしても、なぜ国宝の松本城を擁し、より難関大学に合格者を出している松本深志高校を差し置いて上田高校を紹介するかと言えば、偏にその城郭高校ぶりである。
上田高校は上田城三の丸、上田藩主の藩主松平家の館跡に建っているのである。城主や藩主の館跡に残る高校は少なくないが、上田高校の場合は何と言ってもその残り具合が素晴らしい。
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上田高校の古城の門。 ここから青春のドラマが始まり、 やがてエンドロールを迎える。 [上田高校HPより] |
上田高校の校門は藩主屋敷の表御門がそのまま使われている。レプリカではない。市の文化財にもちゃんと指定されている門である。この門は「古城の門」と呼ばれ、生徒は毎朝この門をくぐって教室に向かう。昨今の物騒な世の中を反映してか、学校の校門は年々厳重さを増しているが、生徒を守るというより、どこか人を締め出すような非人間的な印象を受ける。だがこの古城の門は、その威風堂々たる姿が「遅刻など一切ゆるすまじ」という無言の威圧感を与えるものの、都会で見かけるID付きの重い鉄門にはない、そこはかとない慈愛が漂う。
それもそのはずだ。この門は毎年春の入学式から卒業至る、学校行事の節目節目に記念撮影のポイントとして使われているのだ。高校の青春ドラマがこの門から始まり、ここでエンドロールを迎える。上田高校生にとっていかにこの古城の門が重要であるかは、同校のホームページに延々の掲載された写真が物語っている。世に名門という言葉があるが、こと上田高校の古城の門ほどこれにふさわしい門はないだろう。
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古城の門とお堀。 5月には丁寧に管理されたつつじが 花を咲かせる。 [上田高校HPより] |
上田高校の周囲にはお堀も現存しており、その内側にはこれまた文化財指定の塀もそのまま残ってる。周囲には桜やつつじが綺麗に管理され、旬の頃はそのまま江戸時代にスリップしたような感覚にとらわれる。
こんな羨ましい学び舎を巣立ったOBには東京急行グループの創設者五島慶太や、カムイ伝などで独自の世界を拓いた漫画家の白土三平、気象予報士の関嶋梢、「マドンナたちのララバイ」(岩崎宏美)「時間よ止まれ」(矢沢永吉)など、流行歌を数多く送り出した作詞家の山川啓介、若手ではフジテレビアナウンサーの桜井堅一朗などがいる。
上田高校はベースとなる城がいい。あの上田城である。あの、と称するのは、この城が知る人ぞ知る難攻不落の城だったからだ。城をつくったのは戦国時代、甲斐国武田信玄に仕えた真田十勇士で知られる真田昌幸。上田城は1583年に彼が築城開始し、翌年完成させたものだ。
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上田城。長野県きっての桜の名所としても知られる。 春には「上田城千本桜まつり」が催される。 [上田市HPより] |
真田が地勢に知悉していたことはあるが、やはり上田城のつくりの巧みさがこの結果を導いたことは言える。最も昌幸は徳川が攻めることを想定していたと言われる。
南側を千曲川が流れ、北側と西側に矢出沢川を引きこみ、唯一の攻めどころである東側も湿地帯があるなど、地形をうまく利用している。天守閣は残っていないが、その存在を疑問視する声もある。同時期築城の小諸城などには天守閣が見られることから、あったという説が有力だが、謎の多い城でもある。
この城と真田の知略で結局秀忠は真田父子を討てず、関ヶ原の主戦にも間に合わず、何とも中途半端なまま徳川の時代を迎えることとなった。
天下の二代将軍を手こずらせたこともあって昌幸、信繁父子は本来であれば、自害してもおかしくなかったが、紀伊の山奥への蟄居で済んでいる。代わって上田城に入ったのは昌幸の長男である信之である。なんと信之は関ヶ原の戦いでは徳川側についていたのである。
このあたりも知略家真田一族の名を後世に知らしめる史実の1つである。つまり家を重んじた真田は東西両方に子どもがついていれば、真田の家系は残ると考えたのだ。その後の信繁は大阪冬の陣、夏の陣で再び徳川と戦うが、ついに夏の陣で討たれる。
その後藩主は信之の時代が続くが、1622年に信濃松代藩に「転勤」、代わって仙石氏が小諸藩より転勤、さらに1706年に松平氏に変わる。
こうしたいわくもあってか、上田城はちゃんとした天守閣が残っていない城にもかかわらず、城マニアの間では常に上位にランクされる。
現在上田高校には定時制を含め約一一〇〇人が学ぶ。上田高校ではいわゆる部活動とは呼ばず、これを班活動と呼んでいるが、その種類参加者はかなりの数に上る。全国レベルも少なくない。一方で学業も東大5名や国公立医学部5名をはじめ全国難関大に合格する生徒も多い(2010年)。いわゆる文武両道の典型校と言える。
変幻自在、時代の先を読み、忠義を果たす一方で実利をとったかつての城主の生き様を、古城の門は今日も上田高校生に語りかける。。
変幻自在、時代の先を読み、忠義を果たす一方で実利をとったかつての城主の生き様を、古城の門は今日も上田高校生に語りかける。。
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