2011年1月20日木曜日

城が学び舎だった ―― 城郭高校探求譚 ――――― 岡山朝日高等学校-2

烏城城郭に「築城」した校舎



光政は国替によっていみじくも岡山藩主となっていた。
江戸幕府は将軍をトップとするいわば会社組織で、各藩主は支店みたいなもの。各支店の業績や経営陣に対する態度などで転勤となることはよくあった。
光政が岡山藩主になったのは、叔父である池田忠雄が死去し、その嫡子である光仲が幼少で山陽道の要衝である岡山を預かるには力不足であると見做されたためだ。

つまり旗艦支店である岡山支店を任せるには「光仲くんは、まだ力不足じゃないか」と人事部長判断があったのだ。
それまで光政は鳥取藩主だった。この人事では光政が岡山に入る代わりに光仲は鳥取に向かう。つまり入れ替わりである。

光政自身も本来なら姫路藩主として、父の後任に座るはずだったが、幼少を理由に鳥取藩に国替えとなった経験を持っていた。
これが閑谷学校の施策となって結実したのだろう。

一方城主を迎えた岡山城。石山城とも言われ、戦国時代に備前の金光宗高が居城していた石山のごっつい城だった。ここに豊臣秀吉の五大老の1人となった宇喜多秀家の父、直家が金光氏を討って入城、再築城した。その後、秀家が全面リニューアル、1597年に完成させたものである。リニューアル後は外壁に黒塗りの「下見板」と呼ばれる板を貼っており、黒っぽいしまった城へ変身。これが別名の「烏城」のゆえんとなっている。現存する天守閣は、第二次世界大戦で消失したものを再建したものだが、江戸時代の雄姿をそのまま再現している。

岡山城の天守閣は世界遺産ともなった姫路城と同じ様式。すなわち大入母屋造りに意匠を凝らした高楼を重ねた「望楼型」。戦火を逃れていれば、姫路城に次いで世界遺産になっていたかもしれない。
しかもかたや白鷺、かたや烏で、そのコントラストが互いを引き立て、今以上に観光客を引き寄せただろう。

実は岡山にはこの烏城の名を抱いた高校がある。県立烏城高校。夜間中学として誕生した同校は、夜間部と昼間部を持つ高校として岡山県の勤労学生の学びの場として重要な役割を果たしているが、残念ながら歴史が浅く(1941年開設)と、1世紀に足りない。城郭高校に入れることはできなかった。

城郭高校の条件は前回いろいろ挙げた。それらの項目が2つ以上当てはまっていれば、それをクリアするが、歴史が1世紀、もしくは90年以上はマストの条件である。岡山朝日高校はその条件を満たしているが、やはり城郭高校という以上、しかも1回目だから、校舎の周辺に城郭の一部が残っていなければという気にもなる。

現在の岡山朝日高校は岡山城から南西およそ1km余りの旧制六高跡に建つ。岡山市内の高校で最も近い位置にあるものの、敷地内の校舎には、城郭の片鱗は見て取れない。

しかし同校の公式サイトの沿革を覗くと、誰もが得心するに違いない。

岡山朝日高校の公式の創立年は明治7年(1874年)である。岡山藩藩校の歴史を汲む教員養成機関として「温知学校」が創設された年だ。この温知学校が建てられた場所は、岡山城の西の丸跡なのである。さらに1895年、制度改革により岡山県岡山尋常中学校となった同校は、新校舎を岡山城内に建築、1896年11月に竣工し21日に落成式典を行っている。

1929年の旧制岡山一中空撮写真。
天守閣を囲むように
校舎や施設が建ち並んでいる。
[県立岡山朝日高校HPより]
同校の公式サイトには、この当時の新築直後の校舎の写真が載っているが、張り出した石垣の上に建つ校舎の様は、まさに城郭高校にふさわしい。同校ではこの落成記念日を正式な創立記念日としている。城郭高校としては実に正しい歴史的判断だと思う。
サイトではさらに時代が下り、1921年旧制岡山一中となった同校の空撮が1929年と1935年の二枚、掲載されている。そこにはこれを城郭高校と呼ばず何と言おうというばかりの姿が確認できる。
その校舎の様子はまるで岡山城の築城の際からある本丸の建築物のようである。

まさに城が学び舎だったのだ。残念ながらこの校舎も大戦の戦火で烏城の天守閣とともに焼け落ちてしまった。
岡山朝日高校は4年前に校舎を新築している。コンピュータ教室や生徒が自由に使えるコモンホールなど県立高校にしてはそれなりにモダンな要素を取り入れているが、見る限りは無難だ。だがもし今なお校舎が城郭内に残っていれば、校舎のつくりもだいぶ違っていたかもしれない。

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