2011年3月21日月曜日

城郭高校探求譚――滋賀県立彦根東高等学校

 ひこにゃんにあやかる?!ゆるキャラだってある滋賀の名門


国宝・彦根城
井伊家400年の栄華のカタチ
  ちょっとやんちゃな歌舞伎役者がいたそうな。彼はことあるごとに「俺は将来、人間国宝になる。君は?」と訊いていたという(巷間の話)。そのやんちゃが高じて、活動禁止となったそう。でも巷の人は、どこか彼にまたやんちゃをやらないかと半分期待をしている……人の心はいとをかし。それはともかく「国宝になる」と言われて、ふつうは「俺もだ」と返せる人はそういない。

それほど「国宝」という言葉には威厳がある。ふつうの人を平伏させてしまうのだ。
その国宝の指定を受けているのが、あの彦根城である。お城というだけで、下下の者は、その存在を崇め、敬意を表し、平伏させるに十分な存在であるのに、国宝の指定がつくのだ。しかもこの彦根城は、あの偉大なゆるキャラ「ひこにゃん」を生んだ。
 顔の面積が全体の3分の1を占める、ゆっる~い猫キャラなのに兜まで被っている。取ってつけたような構造をしているが、実はひこにゃんは実在の猫がモデルとなっている。

ペット人口が最も多い猫好きを狙った、緻密なマーケティングから生まれたわけではない。
江戸時代、武蔵国荏原郡世田谷村(現・東京都世田谷区豪徳寺)の豪徳寺の大木で雨宿りをしていた彦根藩主二代目井伊直孝の前に現れた白猫が、直孝を手招きした。「こやつ何者」と近づいたとたん、雨宿りをしていた大木に雷が落ち、直孝は危うく難を逃れた。そのこの白猫こそがひこにゃんのモデルとされる。この白猫は豪徳寺の飼猫で、直孝はその後この豪徳寺を井伊家の菩提寺とした。当時貧乏寺だった同寺は、その後大いに栄耀したという。いまでも豪徳寺は東京近郊の住みたい街ランキングの上位に入る。白猫さまさまである。さらにこうした逸話から、この白猫は「招き猫」のモデルの1つともされている。
ひこにゃんは由緒ある、神々しいまでの逸話を持つ存在なのだ。どこぞの語呂合わせでてきたようなゆるキャラとは格が違うのだ。

そのひこにゃんの住まいは国宝・彦根城。言われからすると豪徳寺が正しい気もするが、意外と出世欲があったのかもしれない。

その彦根城は1622年、多くの大老を排出した井伊家の居城として、徳川四天王の一人、井伊直政の遺志を受けた直継と直孝によって、それまでの佐和山城に代わって築かれた。着手が1604年。18年の歳月を要している。
ちなみに佐和山城は、石田三成の居城だったため、彦根城が竣工した後、徹底的に破壊された。現在はわずかにその碑が高台に残るのみ。家康が「徹底的に解体せよ」と命じたらしい。怨み骨髄に入るというか、何とも勿体無い気がするのはやっぱり筆者が21世紀に生きるからか。

彦根城は、関西の海、琵琶湖湖畔に立つ、どこかヨーロピアンな風情を醸し出す城である。ヨーロッパの城はたいがい美しい湖畔に建つ…というのはもちろん思い込みである。ただどこか異国情緒を漂わせているのは確かである。なぜか。それは朝鮮半島風が取り入られているからである。朝鮮半島風とはすなわち、豊臣秀吉が晩年、朝鮮出兵を行った時にその足がかりとして築いた一連の城、「倭城」の流れを組んでいるからだ。意味的には朝鮮半島風ではなく、日本風ってことなるわけなんですがね…。

倭城の最大の特徴は「登り石垣」という万里の長城のような石垣が、敵の侵入を防ぐために山腹をぐるりと囲んでいることである。佐和山城が徹底的に壊されたのは、とにかく家康が、秀吉の名残を一掃したかったからだが、秀吉が確立した倭城スタイルを彦根城に持ち込んでいるのは、家康の合理主義というより、どこか「ずっこい」気がする。古狸と言われる所以だろう。

藩主の井伊家は、徳川家、関ヶ原、それに続く大阪冬の陣、夏の陣の覚えめでたかったため、江戸時代を通じて1度も転封(転勤)なく通している。老中、大老という要職にはほかに堀田家や本多家など名門普代大名がいたが、転封なしは井伊家だけである。しかも、大老という徳川株式会社のCOO(執行役員)を5代6度勤めている。事実上最高権力者となり桜田門外の変で水戸藩士に切られた15代藩主井伊直弼はその代表だ。


彦根城の敷地に泰然と構える
彦根東高校
[彦根東高校HPより]
 

で、彦根東高等学校である。公式ホームページを開くと、トップの写真には彦根城の石垣をなめた奥に彦根東高校の校舎が見える。なかなかグッとくるアングルである。でも「惜しい、城郭の外なのか~」。と思ったら、ノンノンである。校舎はちゃんと彦根城の内濠と中濠に挟まれた城の一角を占めている。皇居で言えば、外苑あたりだ。城郭高校らしい現存する上屋こそないが、国宝の城(天守)の敷地内というインパクトは大きく、贅沢である。それで十分だと思ったら、かつて校舎は二の丸にあったという。

濠一帯には、桜が植えられ、春ともなれば爛漫の花となる。藤沢周平か池波正太郎が描く情景が浮かぶ。あるいはめでたく東高生(略称はこうらしい)となった彼ら彼女は、これまた風情たっぷりの京橋をわたって、その道すがら「お初にお目にかかりまする」といった会話を交わすに違いない。もしくは「そちはにゃんと申すか」とか云うのだろうか、ひこにゃんだけに…ンなわけないか…。

彦根東高校の校舎は彦根城の多くの城郭高校と同様、そのオリジンは1799年創設の彦根藩藩校「稽古館」である。歴史は200年を超える。十分長い歴史を持つが、岡山藩が米沢藩など開明派の藩主が1600年代に開校していることを考えるとやや物足りない。見学精神は「赤鬼魂」。って何だというと、これは井伊家の「赤備え」に由来するものらしい。赤備えとは、関ヶ原の戦いなどの武勇で知られる井伊直政が、戦闘の際、朱塗りの甲冑、具足、兜など軍装束で敵をバッタバッタと撃破、その姿が赤鬼として恐れられたことからこう呼ばれるようになったらしい。

同校のHPは赤鬼魂を「何事も一番!」「先頭に立って活躍する」「時代に先立って新しい分野を切り開く」「何事にも屈しないチャレンジ精神」と紹介している。
かなりアグレッシブなスピリッツである。そんな赤鬼魂を宿して旅立っていったOBには舌鋒鋭く斬り込むジャーナリストの田原総一朗を代表として、パナソニック中興の祖、中村邦夫元社長、トヨタの中興の祖、石田退三元社長など、なるほどな顔ぶれが並ぶ。時にアグレッシブ過ぎ、過激派であさま山荘事件の首謀者だった坂東国男や日航機ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命した若林盛亮なども出した。

そんなアグレッシブなスピリッツを持つ高校なのに、彦根東高校は独自のゆるキャラを持ってる。「ぎんにゃん」。ぎんにゃんはひこにゃんと同じ白猫。彦根東高校の象徴であるイチョウを頭に挿し、赤鬼魂を表した真っ赤なマフラーを巻き、校章で留めている。ひこにゃんの高校生版とも取れなくもない。

ぎんにゃんは2009年に行われた「彦根七夕まつり」で校外デビュー。同年の「ゆるキャラまつりin彦根~きぐるみさみっと2009~」では高校としては唯一参加し、話題を呼んだ。話題と言えば、ぎんにゃんは、かくれんぼのギネス記録も持っている。2010年、市内の荒神山公園で188人が1時間以上隠れ続け、めでたくギネス記録認定者の一人(一匹)になった。実技では191人参加して188人が残ったというから、ちょっとゆるゆるなかくれんぼの気もするが…ギネスなんだからしっかり基準をクリアしているのだろう。

地方の名門高校というのは、たいがい不思議な伝統文化を持っているものである。この彦根東も御多分に漏れず、いろいろある。その代表が「東高体操」だ。50年前、同校の体育教師であった宮下雅男さんが開発したオリジナル体操だが、新入生はこの体操をマスターしてはじめて東高生として認められるという。高校生らしい体操を目指してつくったということで、動きは高度でわかりにくい。しかも男女振り付けが別だ。どうせ受験科目じゃないからテキトーにしようぜ、ってわけにはいかない。東高体操ができないと単位がもらえないからだ。そう何事も赤鬼魂なんである。

ちなみにほかのOBOGには民主党内閣総理補佐官の細野豪志、同じく元文部科学省の川端達夫、参議院議員の林久美子、同じく田島一成など国会議員、とくに民主党員が固まっている。ほかにL’Arc~en~CielKenなどもOBである。

なお田原総一朗の影響ではないだろうが、新聞部が強く、県の高等学校新聞コンテスト最優秀賞を31年連続で受賞(2010年度時点)のほか、全国高校新聞年間紙面審査賞や全国高校新聞コンクールなどでも毎年トップクラスの賞を受賞している。

ゆるそうに見えても赤鬼なんである。




2011年3月3日木曜日

城郭高校探求譚_長野県立上田高等学校

悠久を超えて語りかける「古城の門」

長野県は知る人ぞ知る教育県だ。とりわけ漢字教育には熱心で、小中校では白文帳という漢字練習帳に毎日好きな漢字を1つ選んでは、ノート1ページを埋め尽くす。このため小学生でもかなり難読の漢字が書ける。このあたりはTVの人気番組「秘密のケンミンショー」でも紹介していたのでご記憶の方もいるだろう。

長野県立上田高校はそんな長野県の東信地区を代表する進学校である。創立は1874年、第16区予科中学校が前身である。
上田市は人口約16万人、信州の鎌倉と言われる東信地区最大の城下町である。県立上田高校は、その中心部、上田市役所のとなりにでーんと構えている。上田市には信州大学繊維学部の上田キャンパスもあるが、JR上田駅前からは上田高校のほうが近い。所在地住所も大手1丁目。まさに城郭高校にふさわしい地名と位置取りである。

ちなみに東信とは信州の東を意味する。長野はほかに大きく北信、南信、中信の4つの地域に分かれており、それぞれ代表的名門校がある。北信では県庁所在地長野市にある県立長野高校、南信ではその中心都市である飯田市にある県立飯田高校、中信では県下2番目の人口規模を持つ松本市にある松本深志(ふかし)高校がある。

この3校のうち国宝松本城を擁する松本深志と飯田城を擁する飯田高校は城郭高校の要件を揃えているが、長野高校は長野市が善光寺を中心に発展した門前町であるため、仲間に入れられない。ごめんね、長野高校。

残り2校はまた追々紹介するとしても、なぜ国宝の松本城を擁し、より難関大学に合格者を出している松本深志高校を差し置いて上田高校を紹介するかと言えば、偏にその城郭高校ぶりである。
上田高校は上田城三の丸、上田藩主の藩主松平家の館跡に建っているのである。城主や藩主の館跡に残る高校は少なくないが、上田高校の場合は何と言ってもその残り具合が素晴らしい。

上田高校の古城の門。
ここから青春のドラマが始まり、
やがてエンドロールを迎える。
[上田高校HPより]

上田高校の校門は藩主屋敷の表御門がそのまま使われている。レプリカではない。市の文化財にもちゃんと指定されている門である。この門は「古城の門」と呼ばれ、生徒は毎朝この門をくぐって教室に向かう。昨今の物騒な世の中を反映してか、学校の校門は年々厳重さを増しているが、生徒を守るというより、どこか人を締め出すような非人間的な印象を受ける。だがこの古城の門は、その威風堂々たる姿が「遅刻など一切ゆるすまじ」という無言の威圧感を与えるものの、都会で見かけるID付きの重い鉄門にはない、そこはかとない慈愛が漂う。

それもそのはずだ。この門は毎年春の入学式から卒業至る、学校行事の節目節目に記念撮影のポイントとして使われているのだ。高校の青春ドラマがこの門から始まり、ここでエンドロールを迎える。上田高校生にとっていかにこの古城の門が重要であるかは、同校のホームページに延々の掲載された写真が物語っている。世に名門という言葉があるが、こと上田高校の古城の門ほどこれにふさわしい門はないだろう。

古城の門とお堀。
5月には丁寧に管理されたつつじが
花を咲かせる。
[上田高校HPより]
上田高校の周囲にはお堀も現存しており、その内側にはこれまた文化財指定の塀もそのまま残ってる。周囲には桜やつつじが綺麗に管理され、旬の頃はそのまま江戸時代にスリップしたような感覚にとらわれる。
こんな羨ましい学び舎を巣立ったOBには東京急行グループの創設者五島慶太や、カムイ伝などで独自の世界を拓いた漫画家の白土三平、気象予報士の関嶋梢、「マドンナたちのララバイ」(岩崎宏美)「時間よ止まれ」(矢沢永吉)など、流行歌を数多く送り出した作詞家の山川啓介、若手ではフジテレビアナウンサーの桜井堅一朗などがいる。

上田高校はベースとなる城がいい。あの上田城である。あの、と称するのは、この城が知る人ぞ知る難攻不落の城だったからだ。城をつくったのは戦国時代、甲斐国武田信玄に仕えた真田十勇士で知られる真田昌幸。上田城は1583年に彼が築城開始し、翌年完成させたものだ。

上田城。長野県きっての桜の名所としても知られる。
春には「上田城千本桜まつり」が催される。
[上田市HPより]
その城の名城ぶりを真田の名前とともに轟かせたのは築城から16年後に起こった天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いの時である。西軍の石田三成側についた昌幸は息子の信繁(幸村)とともに、東軍の有力武将徳川秀忠の軍と上田で相まみえるが、秀忠の3万余の軍をその10分の1(諸説あり)の軍勢で足止めした。
真田が地勢に知悉していたことはあるが、やはり上田城のつくりの巧みさがこの結果を導いたことは言える。最も昌幸は徳川が攻めることを想定していたと言われる。

南側を千曲川が流れ、北側と西側に矢出沢川を引きこみ、唯一の攻めどころである東側も湿地帯があるなど、地形をうまく利用している。天守閣は残っていないが、その存在を疑問視する声もある。同時期築城の小諸城などには天守閣が見られることから、あったという説が有力だが、謎の多い城でもある。

この城と真田の知略で結局秀忠は真田父子を討てず、関ヶ原の主戦にも間に合わず、何とも中途半端なまま徳川の時代を迎えることとなった。
天下の二代将軍を手こずらせたこともあって昌幸、信繁父子は本来であれば、自害してもおかしくなかったが、紀伊の山奥への蟄居で済んでいる。代わって上田城に入ったのは昌幸の長男である信之である。なんと信之は関ヶ原の戦いでは徳川側についていたのである。

このあたりも知略家真田一族の名を後世に知らしめる史実の1つである。つまり家を重んじた真田は東西両方に子どもがついていれば、真田の家系は残ると考えたのだ。その後の信繁は大阪冬の陣、夏の陣で再び徳川と戦うが、ついに夏の陣で討たれる。

その後藩主は信之の時代が続くが、1622年に信濃松代藩に「転勤」、代わって仙石氏が小諸藩より転勤、さらに1706年に松平氏に変わる。
こうしたいわくもあってか、上田城はちゃんとした天守閣が残っていない城にもかかわらず、城マニアの間では常に上位にランクされる。

現在上田高校には定時制を含め約一一〇〇人が学ぶ。上田高校ではいわゆる部活動とは呼ばず、これを班活動と呼んでいるが、その種類参加者はかなりの数に上る。全国レベルも少なくない。一方で学業も東大5名や国公立医学部5名をはじめ全国難関大に合格する生徒も多い(2010年)。いわゆる文武両道の典型校と言える。


変幻自在、時代の先を読み、忠義を果たす一方で実利をとったかつての城主の生き様を、古城の門は今日も上田高校生に語りかける。